昭和48年04月08日 特別奉修委員



 今度の御本部参拝、いつも四神様にご挨拶を頂く中に( ? )二つの世界と言う事を話しておられます、書いておられます、それはあの信心のなかった時代にある世界と、信心を頂いてからの世界というものが全然別な者だと言う事をね、例えば本当にあの、神様のお働きの間違いなさを私共の身の上に頂いて行くでしょう、例えていうなら、東京駅に光橋先生と久保山の奥様が一緒になったとか、それ乗り込んだ所がもう、ギリギリになってから、二葉のあの衛さんが、前からお参りしたいと言いよんなさった。
 私共が参ります前の日に、そこでお参りが出来なくなったというて、電話がかかってきとおりましたもん、けれどももうその話を聞くと、もう話聞く程、まあ神ながらなことですけどね、しかも三人ながら一緒じゃった。と言う様にですね、どげん考えたっちゃふがよかったですね、だけでは済まされないものを感ずる訳ですよね、今言う様にその、光橋先生が来てあるということも知らなかった、そしてから( ? )びっくりしたと言う様にですね、なら誰だって、そういう素晴らしい働きの中にあるとですよ。
 ですからそっと、ちょいと不思議なこっちゃ、有り難いだけじゃまたいかんちいう、そういう間違いのない働きの中にあるのだからです、私共もはっきりそういう有り難い世界にある、実は現して行かなきゃ生活の中に、信心のある者となか者の世界というものをね。私はまだそこんところ、2、3ページ読んだだけですけれども、はぁこのお書物は素晴らしいお書物だから誰でも宣伝してきたことでしたけれどね、その二つの世界、私共の信心を頂いてからの世界にね。
 住み替えておるのですから、いやまた住み替えておるだけの物の見方、考え方が全然違っとるのですから、いわゆる、見方考え方が、もうそのまま生活に現れてこなければ二つの世界に住んでおる、あの新たな信心の世界に住んでおるといえないでしょう、もっとしたら、合楽の場合はそういう間違いのない働きの中にお互いおかげを頂いておるのですから、私共も間違いのないそういう働きを現して行かなければね、いけないと言う事を感じます。